私が観たり、聴いたりしたものの感想と日常のしょうもないことをウダウダと…
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オモシロモノ
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プロフィール
HN:
赤姫
性別:
女性
趣味:
映画・演劇・音楽鑑賞
自己紹介:
関西在住。生まれ育ちも関西のコテコテ(?)関西人。
洋画・洋楽・歌舞伎で育ったため(?)、ちょっと感覚がヘンかも……
野球好き。ご贔屓はロッテとやっぱり阪神。
別名(まーちゃん)で時々よそ様に出没。
赤姫とは…歌舞伎に出て来る典型的なお姫様。たいてい真っ赤な着物を着ていて、キラキラとした大きな銀の花櫛を鬘につけ、振る舞いもとても可愛いらしい。
子ども時代の私の憧れでありました。
洋画・洋楽・歌舞伎で育ったため(?)、ちょっと感覚がヘンかも……
野球好き。ご贔屓はロッテとやっぱり阪神。
別名(まーちゃん)で時々よそ様に出没。
赤姫とは…歌舞伎に出て来る典型的なお姫様。たいてい真っ赤な着物を着ていて、キラキラとした大きな銀の花櫛を鬘につけ、振る舞いもとても可愛いらしい。
子ども時代の私の憧れでありました。
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かうんたー
数え始め 2006/11/14
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水球の試合のシーンから、映画は始まる。
ソ連対ハンガリー戦のようだ。
ソ連側のファウルを見逃し、ハンガリーに不利な判定を下す審判。
彼は、とうとう持っていたボールを審判に投げつけた。
……そのまま試合は終了。
このシーンは、この当時のソ連とハンガリーの関係を表しているのだろう。
水球の花形選手、サボー・カルチ。
遠征から戻り、大学に顔を出した彼は、講堂で学生達に立ち上がれと呼びかける演説を耳にする。
その中にいた女子学生ヴィキに一目惚れしたカルチは、最初は彼女の気を引くために運動の片棒を担ぐような真似をするのですが、彼自身の中にも愛国心と自由への渇望が芽生えていく。
1956年、独裁的な共産主義政権下にあったハンガリーで、市民達は自由を求める声をあげた。
だが、彼らの前にソ連軍が立ちはだかる。
世界はハンガリーを見捨て、革命は敗れた。
その数週間後、運命の女神の悪戯か、メルボルンで開催されたオリンピックで、ハンガリー水球チームは、ソ連チームと戦うことになった。
のちに「メルボルンの流血戦」として伝えられる、オリンピックの歴史に残る悲劇のゲームである。(チラシより抜粋)
この二つの歴史的事実を映画化した本作。
自由を求めて戦う市民達、その戦いの最中に愛を育む二人を中心に物語は進んでいく。
個人的には、こんな時になんでそんなことしてるのか!?といつも思うのだが、それが種の保存なのだろう。
人間はただ遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子のいいように操られているという説に私は賛成である。
それは、さて置き
他国に支配されている、というのはやはり辛いし、大変なことなのだろう……と、私には想像するしかない。
自分達が武器を持って立ち上がらなければ!と人々に思わせるというのは、余程のことだ。
多くの犠牲を出したものの、革命は成功した。
……ように見えた。
カルチたち、水球チームはオリンピックに出場するために、メルボルンへと向かう。
そのバスのすぐ横を、市民達に屈し、撤退した筈のソ連軍の戦車が次々と市街地へと進んでいく。
バスを降り、戻ろうとするカルチを幼馴染で同じチームのティビは、殴りつけて気を失わせる。
メルボルン、TVは、何もかも破壊されたブダペストを映し出している。
選手達の多くはアメリカのチームに誘われ、故郷に戻る気を失くし、投げやりになっていた。
だれ切った様子の選手達に監督は言う。
「ハンガリーは、まだやれるんだと世界に見せてやるんだ。自分のためじゃない、みんなのために勝つんだ。」
想像もつかないような世界の話に思えるけど、歴史的な目で見れば、日本だってほんの少し前まで占領下だったのだ。
ひょっとしたら、アメリカやソ連によって分割統治されていたかもしれないというのも聞いたことがある。
もしそうなっていたら、今とは何もかも違っているんだろうか?
ハンガリーという国の、そして、自由を求める人々の記録と記憶がこの中にある。
ソ連対ハンガリー戦のようだ。
ソ連側のファウルを見逃し、ハンガリーに不利な判定を下す審判。
彼は、とうとう持っていたボールを審判に投げつけた。
……そのまま試合は終了。
このシーンは、この当時のソ連とハンガリーの関係を表しているのだろう。
水球の花形選手、サボー・カルチ。
遠征から戻り、大学に顔を出した彼は、講堂で学生達に立ち上がれと呼びかける演説を耳にする。
その中にいた女子学生ヴィキに一目惚れしたカルチは、最初は彼女の気を引くために運動の片棒を担ぐような真似をするのですが、彼自身の中にも愛国心と自由への渇望が芽生えていく。
1956年、独裁的な共産主義政権下にあったハンガリーで、市民達は自由を求める声をあげた。
だが、彼らの前にソ連軍が立ちはだかる。
世界はハンガリーを見捨て、革命は敗れた。
その数週間後、運命の女神の悪戯か、メルボルンで開催されたオリンピックで、ハンガリー水球チームは、ソ連チームと戦うことになった。
のちに「メルボルンの流血戦」として伝えられる、オリンピックの歴史に残る悲劇のゲームである。(チラシより抜粋)
この二つの歴史的事実を映画化した本作。
自由を求めて戦う市民達、その戦いの最中に愛を育む二人を中心に物語は進んでいく。
個人的には、こんな時になんでそんなことしてるのか!?といつも思うのだが、それが種の保存なのだろう。
人間はただ遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子のいいように操られているという説に私は賛成である。
それは、さて置き
他国に支配されている、というのはやはり辛いし、大変なことなのだろう……と、私には想像するしかない。
自分達が武器を持って立ち上がらなければ!と人々に思わせるというのは、余程のことだ。
多くの犠牲を出したものの、革命は成功した。
……ように見えた。
カルチたち、水球チームはオリンピックに出場するために、メルボルンへと向かう。
そのバスのすぐ横を、市民達に屈し、撤退した筈のソ連軍の戦車が次々と市街地へと進んでいく。
バスを降り、戻ろうとするカルチを幼馴染で同じチームのティビは、殴りつけて気を失わせる。
メルボルン、TVは、何もかも破壊されたブダペストを映し出している。
選手達の多くはアメリカのチームに誘われ、故郷に戻る気を失くし、投げやりになっていた。
だれ切った様子の選手達に監督は言う。
「ハンガリーは、まだやれるんだと世界に見せてやるんだ。自分のためじゃない、みんなのために勝つんだ。」
想像もつかないような世界の話に思えるけど、歴史的な目で見れば、日本だってほんの少し前まで占領下だったのだ。
ひょっとしたら、アメリカやソ連によって分割統治されていたかもしれないというのも聞いたことがある。
もしそうなっていたら、今とは何もかも違っているんだろうか?
ハンガリーという国の、そして、自由を求める人々の記録と記憶がこの中にある。
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